2005年06月21日

機動新世紀ガンダムX 第十二話

「私の最高傑作です」

第十二話の再視聴感想です。




 やはりフォートセバーン編は好きですね。
 世界の拡がりを予感させる伏線があり、テーマを掘り下げ始めるエピソードでもありますしね。
 『ぷちぷり*ユーシィ』 にやや圧されているものの、ガンダムXもやっぱり負けず劣らず大好きなんだと感じました。

 OP、変わりましたね。
 絵が最後の方だけですが。
 先週のラストで発進したけれど、実質、今週がGX−9900−DVの初陣ですからね。それにあわせた変更でした。

 ガロードの成長がたっぷり見ることが出来た第十二話でした。

 ジャミルの評価とキッドの評価、そしてフロスト兄弟(主にシャギア兄ぃ)の評価が急上昇のガロードです。
 ジャミルの評価は同じGX乗りとして、キッドの評価は自分が整備している機体のパイロットの成長を見守るものとして(キッドの方が年下ですけど)、フロスト兄弟の評価はライバルとして。
 順応性の高さは成長期であることとガロードの出自が関係していると思います。
 主人公特権濫用までには至らないパワーアップ描写が好きですね。フロスト兄弟を圧倒したけど撃墜は出来なかったですし、ヴァサーゴについてはオルバくんの暴走が原因ですから。ここらへんの力関係の妙がたまりません。特定のキャラとMSに肩入れすることが無いのがよいです。

 対フロスト兄弟戦を終えたガロードの言動にも成長の跡が見られ、戦闘シーンよりもこちらの方がよりガロードの成長が垣間見えていいですね。
 戦闘力のアップを表現しておいて、そのあとで精神面の成長を表現する。
 戦闘面ではジャミル、キッド、フロスト兄弟の評価がガロードの成長を補強していたと思いますが、精神面では誰かの評価で補強しているのではなくガロード単体での表現となっていました。
 ここがいい。簡単に他者による精神面の評価を挿入するのではなく、あくまでガロード本人の描写のみで視聴者に成長の証を見てもらう構成なんですね。
 これを支えるものとしてはフリーデンクルーの反応、一度フォートセバーン市に向かおうとするガロードを見て「またか」という反応だけを描く。これによっていったんはガロードはMS戦では成長したけど中身は前のままかよ、と思わせておいてガロードが思いとどまるシーンを描く。
 戦闘面では他者のプラス評価とその象徴としてのガロードの活躍を、精神面ではマイナス評価とそれを覆すガロードの行動を描く。ぼくはよく練られ考えて書かれたシナリオだなあと思います。
 ガロードが自分の力の欠如、それによる大事なものを守れない現実をきちんと認識しているセリフを言ったのがこの冒頭数分の優れた帰結だと思っています。
 
 力を求めるガロードは同じく力を求めたカリスと対比され、しかしその理由の違いと行動の違いが二人の差であること、このエピソードの核となる表現だと思います。
 少年特有の他者を超えたい、自分がより高みにありたいと思う気持ち。ティファという大好きな女の子を守るための力を求める気持ち。それがガロードの気持ち。
 一方カリスは大事な人ではなく、「世界」というとても大きなそして実体の掴みにくいものために力を求めました。そして人工ニュータイプとなりました。
 この気持ち、わからないでもないです。戦後の荒廃した世界と徐々に立ち直りつつある世界。そんな世界について考えることはおかしなことではないですし、必要なことではあると思います。
 ただ、ガロードが自分がいる世界・ティファがいる世界・ティファといる世界、そんな世界がガロードの世界であるのに対して、カリスの言う世界とはいかなるものかまったくわからないんですね。
 ガロードは若いですけど、幼くして父を失い流れMS乗りの襲撃で町や友達を失い、汚い仕事もしながら生きてきて、そしてティファと出会いフリーデンクルーと出会いました。それからフロスト兄弟やエニルとももっとたくさんの人たちと出会ってきました。出会うたびに世界が広がりよりくっきりと自分の世界が形作られてきたのだと思います。
 では、カリスの世界とは?
 カリスは自分の過去について多くを語りません。ただ自分はつまらない人間だったと言います。ガロードやティファと同い年、終戦の年に生まれ、苦労して生きてきたはずなのに。誰かと出会いともに生きることで自分の世界を形成してきたはずなのに。
 カリスの世界は形骸化した空っぽの世界なんですね、きっと。だからノモアに利用された。ノモアの語る、ノモアが自らの過去を認めるための、過去に望んだ世界を造るために利用された。自分がいる世界でも大切な誰かの生きる世界でもないんですね。ただ漠然とした「世界」という言葉のために力を求め人工ニュータイプとなったカリス。カリスを慕うフォートセバーン市民のための世界でさえないんですね。
 ガロードたちが出会いと別れを繰り返しながら旅をしながら様々な、たくさんの人たちの「世界」を見てきたのに対し、カリスの見てきた「世界」とはただの言葉でしかなかったようです。カリスの過去が回想ですら描かれず、またカリスの言葉ですら語られなかったのもそのせいなのでしょう。
 このフォートセバーン編というエピソードと、カリス・ノーティラス個人の物語が素晴らしいのは、ガロードやティファたちとの出会いと別れ、その後のカリスの行動がカリスが自分の「世界」を探すためのものだからなのだと思います。
 『ガンダムX』 が地味と揶揄されながらも執拗に地球での旅を続け、様々な「世界」と触れる物語なのも、戦争が「個」を排除し「世界」という実体の無い「世界」を巡る愚行であるというメッセージなのかもしれません。
 人の数だけその人の「世界」があり、大きな「世界」には小さいけれど確かに「個」が存在し、その「個」がたくさん生きているのが「世界」である。それを体験してきたガロードたちがそれを体験しようとしない、自分以外の人たちの生きる「世界」を知ろうともしない認めようともしない人間達と戦い、そんな人間達の求める戦争に対してハッキリとNOを叩きつけるという結末はいたって自然であり、首尾一貫したテーマとして描かれていると思いました。
 
 『機動新世紀ガンダムX』 は英雄・スーパーヒーローの物語ではない。戦時下においてそれでも存在する無数の人々の「世界」の対立と和解、それが絶望から希望を見出す物語である。
 高松監督の言葉、作中の「ニュータイプ」とは「ガンダム」のメタファーであるそうです。「ニュータイプ」否定の物語は「ガンダム」否定の物語なのでしょうか。「ガンダム」が戦争ごっこで活躍するキャラ、シャアなどを消費するためだけの物語ではないことは一目瞭然です。特に 『機動戦士ガンダム』 なんて。
 しかし、「ガンダム」が戦争という状況で誕生する英雄や魅力的なキャラクター、カッコいいMSやそのMS戦闘を楽しむという一面が肥大化し、「戦争」に対する異議申し立てを含んだ物語として機能しなくなってきた状況を何とかするべく生み出されたのが 『機動新世紀ガンダムX』なのではないでしょうか。「ガンダム」的な視点や消費のされ方を拒否した作品。そこにぼくは可能性を感じています。悲劇しか生み出さない戦争を否定しながら戦争が生み出すキャラやMSを喜び勇んで消費するファンとファンを生み出す「ガンダム」へのアンチテーゼ。
 『機動新世紀ガンダムX』 が徹底していたのはそこだったのではないでしょうか。上手くいえないのですが。このことはもっとよく考えていきたいと思います。

初視聴時の感想は⇒こちら
posted by あぷろん at 01:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 機動新世紀ガンダムX (再) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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